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August 15, 2021

『草生す屍』よりよい余生

お茶を少々かじることもあって、骨董というほどではないがいくつか古いものを持っていたりする。親が遺したものもあるが、多くは買ったもので、江戸時代の茶碗だのといった茶道具的なものもあるが(むろん特段値打ちものでもないのでふつうに使っている)、それとはやや離れたものもけっこうあって、まあそういうものが好きなんだろう。もともと子どもの頃から古銭を眺めてニヤニヤするタイプだったので、三つ子の魂百までとはよくいったものだと思う。

何がいいのか自分でもよくわかっていないが、ひょっとすると、そうしたものを手に取るときふと、過去にこれを使っていた人たちやその場面について想像を巡らせることがあって、なんというか、自分と歴史とのつながりを意識できるのがいいのかもしれない。テレビで歴史番組などを見ると、あの人物が活躍していたあの時代にこれはどこにあったのだろう、何を見てきたのだろう、といった具合だ。それがめぐりめぐって何の因果か今自分の手元にある。手に取ると、自分は確かにその時代に生きた人々や起きたできごとと何らかのつながりがあるのだと実感することができる。

そうしたものの中にいくつか戦時中のものがある。本来お茶とは関係ないが、いわゆる「見立て」として使ったりすることもあって、その1つがこれだ。

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旧海軍の四式手榴弾の弾体。戦争末期で金属の入手が難しくなったため陶器で作られている。各地で作られたようで外観はさまざまだが概ね直径8cm程度の球状のものが多いようだ。終戦によって不要となり大量に投棄されたため、現在でもあちこちに放置されていて(当然爆薬は入っていない)、ヤフオクなどでもよく売っている人がいる。

本来、陶器は手榴弾の弾体には適していない。金属製弾体と比べて爆発で飛び散る破片の殺傷力が高くないからで、あくまで代用ではあるが、本来の目的をあまり達しないからなんとも愚かしい。同様のものはソ連にも存在したらしいので日本だけの愚行ともいいがたいが、まあこうしたものを作らねばならなくなった時点で勝ち目がないと悟るべきだったとはいえるのではないか。

当時こうした、後から考えると「なんでこんなことを」としか思えない愚行は他にもたくさんあった。その最たるものが特攻だったのだろうが、そもそも戦争、特に対米戦を始めたこと自体がそうだったともいえる。当時の国際情勢や世論などからすれば開戦はやむを得なかったという手合いの言説はよくあるが、その後やめる機会がなかったわけではない。当時約7000万人いた人口のうち民間人を入れれば約300万人が命を落とし、そのかなりの部分が戦死ではなく餓死や病死だった。「やむを得なかった」ですむ話ではない。

よく終戦の日について、「降伏文書に署名した9月2日とするのが正しい」とする主張がある。実際、戦勝国側でのVJ Dayはそうだが、日本では国民が玉音放送を聞いた8月15日を終戦の日と定めている。この日をどう決めたのか事情はよく知らないが、少なくとも日本人の国民感情には沿っていたのだろう。手塚治虫はこの晩、空襲の心配がなくなり街の灯がともったのを見て「思わずバンザイをし涙をこぼした」という。同様に思った人は多かっただろう。日本人にとって重要だったのは、大日本帝国が連合国に無条件降伏した「敗戦」の日ではなく、自分たちがもう爆撃の心配をしなくてよくなった「終戦」の日なのだ。

四式手榴弾の弾体に毎年この時期こうして雑草を生けるのは、愚行と愚行として記憶にとどめておきたいと思うからだ。今でも自衛隊がよく演奏する『海行かば』の歌詞に『山行かば草生す屍』というくだりがあるが、この弾体が投棄されていたどこやらにも、戦場で命を落とした幾多の人々の屍のまわりにも、こうした雑草が生えていただろう。国に見捨てられ、犬死にを強いられたあげくこの弾体と同じような姿にされた人々の中には、今なお発見されずにいる人が少なからずいる。「英霊に感謝」などと言う人はよくいるが「では私も『草生す屍』になろう」と言う人はまず見たことがない。他人事だから言えるのだ。それに何らかの効果があったとしても、愚行が愚行であることに変わりはない。

思えば古いものはどれも、人間たちが懲りずに繰り返す愚行をずっと見続けてきたはずだ。時間の流れが少しだけゆっくりになるこの季節、こうした古いものたちの立場になって、人間のふるまいを見直してみるのは悪くない。この弾体にとっても、たまに持ち出されて花入として過ごすのは、その本来の用途に使われてさしたる戦果も挙げず飛び散って消えるよりはるかによい「余生」だろう。今も世界のあちこちで『草生す屍』となっているこの弾体の「後輩」たちにも早くこうした「余生」を送れる日が来るといいのだが。

 

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